春といえば人事異動の季節だが、これはいつも悲喜こもごもだ。海外への異動にしても、気候が良く文化の香り高い先進諸国へ赴任する人もおれば、灼熱の太陽に焦がされる砂漠の国に往く人もいる。もちろんそういうところが好きな人もおり、そのへんうまく調整すればよいのではあるが、これもなかなか難しく、赴任地が本人の個人的趣味と希望に一致している場合はむしろラッキーで、多くの場合なかなかそうは行かない。海外ポストの公募制も議論されるが、一刻を争う機動的なビジネス展開を命とする商社においては、これも現実的な選択肢ではない。よって多くの場合、商社マンは辞令を手にし、希望と使命感と、それに多少のフラストレーションを胸に抱いて任地に赴くことになる。
ほとんどの場合、赴任すれば自分の任地が好きになるが、少数ではあるが、自分の任地が最後まで好きになれない人もいる。こういう人たちに是非読んで欲しい本が、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす 1928‐ 1936 』(岩波文庫)である。著者は昭和の初期に日本に滞在したイギリスの外交官夫人だが、当時の日本は軍国主義への道をまっしぐらに進みつつあり、外国人女性にとって決して住み易い環境ではなかったはずだ。それにも拘わらず、この本は驚くばかりに優しさにあふれた記述に満ちている。
「日本人を理解する唯一の方法は、他の国民を理解する時と全く同じで、まず相手に同情をよせ、そうしているうちに相手が好きになることです」という。実に参考になるではないか。実際、彼女は日本について多くのことを理解するようになる。例えば施主と職人気質の植木屋の不思議な関係のなかに、日本の権力構造の特殊性を発見する下りがあるが、鋭い。また日本における「個の自由」と「集団」の関係についても深い観察がある。夫人は注意深く言葉を選びながら、「個の自由」を優先するというイギリスの価値観のほうが、多くの社会的コストを伴うものではあるが、より優れているとはっきり述べる。さらに日本もやがてはその方向に変化していくであろうと示唆する。
文章に格調があり、観察に幅と深さがある。良著である。サンソム夫人の予言通り、戦後になって日本人は個人の自由を手に入れた。しかし最近、若者たちによる信じられないような事件が立て続けに起こり、人々は戦後の価値観そのものにも不安を覚えはじめている。集団から自由になった若者が、それに替わる新しい価値基準をいまだに見いだすことができず、袋小路に入り込んでいるのだ。しかしサンソム夫人がいうように、イギリスにおいてすら個人の自由を得るためには多大の社会的コストを支払わねばならなかった。このコストを恐れるあまり、真に大切なものを否定することはあってはならない。
(橋本尚幸)